江湖迷人

Yahooブログから引っ越してきた武侠迷のブログです。中華ドラマの古装劇、ミステリ、SF方面を主に取り上げて、感想文を書き連ねてます。ネタバレはしたくはないんですが、ばらし放題になってることも、逆に肝心なことを抜かして何のことかわからないこともあって、あまりあてにはならないので、ご用心ください。

エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス

Everything Everywhere All at Once

 遅ればせながら、話題の映画を見てきました。どのくらい遅れたかと言うと、封切りのころには2スクリーンで上映してたのが昨日は一番小さな部屋で観客6人。そんな映画じゃないと思うのに、笑い声一つ聞こえなくて・・・💦
 なお、数量限定のはずの特典ポストカード↑もちゃんともらったw

 

 すいてるのは歓迎だけど、ものには限度があるなw

 

 いまさら、ストーリの概要もないと思うのですが、アメリカで洗濯屋を営む中国系移民の一家がマルチバースを舞台に世界の存続に関わる事件に巻き込まれていくというもの。同時に彼ら家族の崩壊と再生も描かれていきます。

 実は、この映画、タイトルとミシェル・ヨーこと楊紫瓊主演というのとあの「インディ・ジョーンズ」の子役キー・ホイ・クァンが出てるという二つしか知らなかったんですが、アカデミー賞の授賞式を見て俄然見る気になった。そのくらいよく知らないままに見に行きました。

 で、アカデミー賞の中継見てるときに、ガイド役の人だったかが「ハリウッドの人たち、どれだけエブエブが大好きなんでしょうかね~」というようなことを言ってた理由がちょっとわかった気がします。

 

 映画は破産寸前、結婚生活崩壊寸前のエブリンとウェイモンド夫婦の営む洗濯屋から始まります。がたが来てる店を切り回し税金の申告のために領収書の山と格闘するエブリン、一人で何もかも仕切り周囲を思いやる余裕のない彼女との離婚を切り出そうとしている夫ウェイモンド。中国から引き取ったエブリンの父ゴンゴン(って公公ですよね)に、ゲイの娘ジョイの一家はいかにも現代のアメリカ製映画やドラマに登場しそうな設定です。

 そこに関わってくる国税庁の監査官ディアドラの5人が主役、破産寸前の洗濯屋、国税庁を皮切りにマルチバースを駆け回ります。しかし、最近はパラレルワールドとか言わなくなったのね・・・

 映画の中に盛り込まれたたくさんのメタファーとか元ネタを探すというのは私にはとても無理。「これ、ウォン・カーウェイの映画だよね、これトニー・レオン?」と思ったり、「あ!2001年宇宙の旅!」「あ!マトリックス!」と思ったりしたシーンはありますが、それ以上はとても無理。

 なので、映画全体を見て思ったことをばくっと・・・

 

 アカデミー賞では、初めてのアジア系女性のアカデミー主演女優賞受賞とか作品賞をはじめとしたたくさんの受賞が話題になりました。白人至上主義ではないかという批判をうけたアカデミー関係者、映画関係者が自らのあり様をみなした結果がここにも出てきているということは多くの人が指摘している通りだと思います。

 年齢、容貌、容姿、民族、性別、性的嗜好・・・こういったことが、これまでどう扱ってきた?とばかりに画面いっぱいに突き付けられてきます。顔や手に刻まれたしわを隠すことのないミシェル・ヨー、若いころのスリムな体型とは打って変わった緩い体でアクションを披露するジェイミー・リー・カーティスらの圧倒的な存在感と演技には若さや美貌がまず要求されてきたこれまでの映画界に「なんか文句ある?」とぐいぐい迫っている気がします。

 主人公グループに旧来のハリウッド的美男美女の主人公は存在しません。逆にハリウッド的非白人の悪役も出てきません。そういうふうにこれまでのハリウッド映画が「定番」としてきたような設定がこれでもかというくらいひっくり返されているように思いました。洗濯屋の生活に疲れ、結婚生活に倦んだエブリンとウェイモンドが別のマルチバースでは華麗なハリウッド女優であったり、ばっちりスーツを決めた金持ちイケメンだったりするのにも、そういう皮肉を感じました。

 このことに限らず、ハリウッド映画がこれまでに築いてきた価値観とか作品像、俳優像みたいなもののあり様を根底から問い直すこの数年、それによって「自己肯定感」というか「自我」にダメージを受け、さらに自信を喪失しつつもそのことも含めてすべてを複雑な表情で笑い飛ばしているように見えます。

 

 映画では、英語と中国語の普通語と広東語が入り混じり、シームレスで会話が続きます。1997年に同じくミシェル・ヨーが主演した「宗家の三姉妹」ではシームレスに英語と中国語で会話する三姉妹に対して、英語をしゃべるなと蒋介石が文句を言う場面がありましたが、ここではほとんどの人がそれを問題視しません。中国語のわからない顧客の前でひどいあだ名で彼女を呼んだりするという場面もありましたが、この逆の話ならいくつも見ました。
 キャラの設定上、スペイン語とかほかの言語は登場しなかったように思いますが、言語のシームレス化は映画の世界では確実に進んでいるようです。

 「唐人街探案」でも英語、タイ語、日本語、中国語と複数の言語がシームレスに飛び交っていました。これからの映画は勿論、現実の生活でもこういう風になっていくのかな?

 

 エブリン一家がそれぞれに抱える虚無、それを象徴する黒いベーグル、とあるマルチバースではエブリンとジョイが「石头」であったことなどいろいろ考えることはあります。
 彼らがたどり着いた、というか選び取った世界は、これまでと変わらない税金に追われる洗濯屋の日常ですが、平穏な毎日が訪れたようです。が、それが安定した恒久的なものと言えるはずもないのはもちろん。

 ミッシェル・ヨーやキー・ホイ・クァン功夫はキレッキレで見ごたえ十分だし、とっても愉快な映画ではあったんですが、アフリカ系のキャラがいなかったこととかも気になるし、考えるところがまだまだたくさんあって後引いてます。

 っと、あくまでも一観客の感想文でした。